サム・メンデス監督『007 スペクター』

サム・メンデス監督『007 スペクター』

 

はじめに

 

ネタバレ満載なので、未見の方は速やかにお帰りくださった方が良いかと思われます。

 

前作『スカイフォール』において、ハビエル・バルデムに付与されていた「蠍」のイメージは(酒場のグラスに捕われた蠍と、MI6に捕われたハビエル・バルデムの扱いを比較せよ)、本作『スペクター』では「蜘蛛」に置き換えられている。オープニングクレジットではスペクターのシンボルが「蛸」であることが執拗なまでに仄めかされているし、直接にこそ「蜘蛛」は出てこないものの、明らかにサム・メンデスは「蛸」の背後に「蜘蛛」のイメージを意識しているはずなのだ。サム・メンデスは観客を試していると云ってもいい。「お前に本当に見えているのか、お前は盲いていないか」と。

反復

序盤から幾つものモチーフが反復されている。「冒頭のシークエンスでのソファへの落下→終盤の旧MI6本部でのネットへの落下」、「ローマでミッキーマウスを名乗りスペクターの会議に潜入→ホテルアメリカンでネズミが穴に入るのを見て隠し部屋に気付く」、「マドレーヌが列車内で銃から銃弾を抜く→ボンドが銃弾を抜いてエルンストを撃たない」といったように。特に顕著なのは、建築物の爆破とヘリコプターでの脱出劇が3回にも亘ってセットになっていることか。これらの反復は映画史における普遍的な「円環・回転」のモチーフ、つまりはヘリコプターのシャフトやロンドンの観覧車(London「Eye」)にも暗示されているわけだが、円環構造と云えば、気付いている人が何名もいるように、レア・セドゥ演じる「マドレーヌ・スワン」の名はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にちなんで名付けられていることも忘れられてはならない。しかし、それ以上に重要なのは、「境界」の扱いと「視線劇」の方だろう。

境界

マドレーヌは作中、2度カーテンを閉める。1度目は彼女の診療所で自室のスクリーンをリモコンで(正確には、スクリーンは2回に分けて閉じられる。最初はボンドが部屋にいるとき、次は部屋を退出してから)。2度目はホテル「アメリカン」のベッドの上で。それは彼女にとっての精神的な壁であり、マドレーヌなりのボンドへの拒絶の意思表示でもある。その後、彼女のボンドへの態度は好転するが、それは何故か。もちろん、歴代のジェームズ・ボンドは何の苦労もなく不自然なくらいに女性遍歴を重ねているわけだが、今回の場合は「境界(遮蔽物)」を取り払うこと、すなわち、ホテル「アメリカン」の一室で壁を取り壊し、その奥に入ること(ついでに云えば、列車の死闘において壁を壊すこと)つまり「越境」することに起因している。ボンドは物理的な壁を取り払うことで、マドレーヌの心を開くのである。

「境界」のモチーフによって暗示されるのは、ボンドとマドレーヌの間の精神的な壁だけではない。それは「真実」や「プライベート」なものを覆い隠すベールでもある。「真実」の例はアメリカンの部屋の他、「鏡」の裏のミスターホワイトの隠し部屋があるし、「プライベート」の例はマドレーヌに銃の扱いを教えるとき、ボンドが客室のブラインドを閉じていることに現れている。死闘後の二人の濡れ場も直接には撮られない。

「陽光を遮る列車」の扱い、情事を終えて砂漠の駅に降りた二人を正面から収めたショットにおいて「左方向にフレームアウトしていく列車」の扱いといい、列車もまた「遮蔽物」として使用されていることはもちろん、後者のショットでは二人が「サングラス」をしていることに着目すべきだろう。

そもそも、本作は「窃視」が意識された、メキシコの仮面のパレードの見事な長回し(ボンドがベランダの柵を乗り越え、建物を飛び越えるという越境劇)から始まるのだが、本作では「視ること」「視られること」という「視線劇」が強く意識されており、「境界」同様、最も重要な主題となっている。

視線劇

暗殺者は「目を潰されて」殺される。「視力」を失うことは本作においては「死」を意味する。エルンストの拷問でボンドの視覚が危機に瀕するのも同様の理由だ。サングラスに話を戻そう。「サングラス」の装着は単なる装飾ではない。概ね(真実に対して)「盲目」であること、「視られる側」であることを意味する。ボンドはいつサングラスを掛けているか。

1スキアラの葬儀(エルンストを背後から捉えたショットがあるが、このとき彼もまたサングラスを掛けていることは忘れずにおきたい。エルンストもまた、このときボンドを認識してはいない)

2診療所玄関口での銃撃

3アメリカンに入る直前(マドレーヌはサングラスを掛けていない)

4列車から降り立った砂漠において

などといったところか。

また、砂漠に降り立ち、エルンストの基地に到着し、それぞれの個室に案内された時点においては、2人ともサングラスを外しているが、ボンドはその後再びサングラスを掛け、エルンストに出会う直前に外している。ホテル「アメリカン」のときも同様だが、ボンドはサングラスを外すことによって「真実の目撃者」となるのである。だが、この時点ではボンドたちはまだスペクター=エルンストを追い詰めてはいない。その罠にかかっただけなのだ。

監視と蜘蛛の巣

MとCの会話においてジョージ・オーウェルの名が言及されているが、監視システム「ナイン・アイズ」について、これを「監視社会への警鐘」と捉えるのは、オーウェルが既に古典となった現代では些か素朴過ぎるだろう。むしろ、上記の映画的な視線劇に還元されていることに気付くべきだ。

視ていたつもりが、視られている。追い詰めていたつもりが罠にかかっている。砂漠でサングラスを掛けている間、ボンドとマドレーヌは「盲人」となり、監視されている側となっているのだ。監視システム「ナイン・アイズ」、それは視線の「ネット」を形成する。エルンストが画面を消し、職員たちが一斉にボンドとマドレーヌをその視線で捕縛する。この光景はボンドとマドレーヌが、スペクター=エルンストの罠、つまりは「蜘蛛の巣」に掛かったことを暗示している。

旧MI6でのクライマックスを思い出してほしい。旧MI6本部内においては罠と気付きつつも踏み込んでいくボンドをロープ(あるいはテープだったか)で絡み取ったように見せる俯瞰のショットがあるし、マドレーヌは「蜘蛛の巣」に絡めとられたような姿で捕縛されている。マドレーヌを救出したボンドは黒い「ネット」の上に跳び降りて脱出を図る。これは「蜘蛛の巣」からの逃走劇なのである。

視線と云えば、砂漠の基地で「父の死」の再演を見ようとするマドレーヌに向かって、ボンドが自分を見るように告げたことを思い出してほしい。エルンストとその部下たちの監視下において、マドレーヌは画面に映る父親ミスターホワイトの死から目を背け、ボンドの目を見つめる。彼らはごく私的な結び付きによって窮地を脱出しようとする。このごく私的で素朴な情愛が、時限爆弾への機転へと繋がるのである。

鏡像について

ボンドが時限爆弾で窮地を切り抜けたのに対して、エルンストもまた時限爆弾で応酬する。二人の関係は鏡像関係にある。

サム・メンデスの作家的主題に「家族」というものがあり、本作においてもクリストフ・ヴァルツが見事に演じたエルンストはかつての義兄フランツなのだが、それは兄というよりもボンドの鏡像なのだ。前作においても、ハビエル・バルデム演じるシルヴァが「ボンドのあり得たかもしれない姿」として活写されており『スカイフォール』冒頭のアクションでも車両のサイドミラーが破壊されていたが、『スペクター』ではボンドの鏡像としてのエルンスト像が前作のシルヴァより一層強調されている。列車での暗殺者との死闘の際には「鏡が割られている」し、旧MI6本部で防弾ガラスを挟んで対峙するボンドとエルンストを収めたショットでは、二人が鏡像関係であることが特に強く意識されている。ボンドとエルンストだけではない。MとCもまた鏡像関係にあるし、ボンドがエルンストの基地に招かれた際にも、画面の向こう側でMの口から「ガラスを割る」ことに関する言及がある。MとCの二人の決着においてもガラスが割られるのだ。

ボンドとエルンスト、MとCの二つの鏡像の対立に決着がついた後、物語は再びに越境劇へと戻る。ボンドとマドレーヌ、一度は袂を分かった二人だが、ボンドが再び境界(ヘリの滑走跡)を超えてレア・セドゥの元へと辿り着くショットは微笑ましい。

 

ところで、この記事において「目」という文字を私は何度使ったか。