小泉徳宏監督『ちはやふる 下の句』

小泉徳宏監督『ちはやふる 下の句』

はじめに

序盤の千早と新の(ベタながらも恋への)「落下」が非常にエモい(そして一人落ちることのできない太一が相変わらずせつない)。エモといえば、太一が部員たちに一人で背負うなと諭されるシーン、千早のダッシュを収めた横移動ショット、終盤のガラス越しの新のメガネを叩くようなカルタの扱いといい、ことごとくエモーショナルだ。

色彩

しかし、本作の真骨頂は前作同様間違いなく「色彩」の扱いだろう。ただし、前作『上の句』では、あれだけ美しかった千早のイメージカラーである「赤(紅)」は(エンドロール直前以外では)本作において完全に死んでいる。というよりも意図的に「殺されている」のだ。どういうことか。

緑の氾濫

それは、クイーン若宮詩暢のイメージカラーである「緑」が、ほぼ全編を支配し「赤」の美しさをことごとく殺すからだ。「緑」は自然だけでなく衣服や非常口マークや背景その他数多の小道具に現れている(だから、階段で交わされる千早と太一の会話の後景、窓越しに屋外の木々の「緑」が映り込んでいるのも当然に意味はある)。

驚くべきは、そのような「色彩」の扱いですら、まだ序の口だということだ。というのも、千早が詩暢の存在を意識し始めてからは、色調補正により画面全体わずかに「緑」が強調されているのだ。前作では「青」補正によって生かされていた「赤」が、本作では「緑」補正によって濁らされ殺され、結果として全編通して「緑」が圧倒的な存在感を見せつけている。

薄青

そのような「緑」に支配された画面だが、詩暢との対決において、太一に肩を叩かれた千早が焦燥から抜け出すことで変化が起こる。千早が一人ではないことを自覚した途端、瑞沢高校かるた部のイメージカラーである「薄青」が「緑」を覆す。わずかに「緑」に設定されていた画面も「薄青」に補正されるのだ。

一応述べておくと、『上の句』に見られた「赤」の美しさはおろか、雪景色を筆頭とする、映画としては稀に見るほどの「温かさ」は『下の句』では失われている。光の美しさにおいても『上の句』に比肩するものがあるとすれば、あくまでも個人的な感触では、新が千早の留守電を再生する夕焼けの田圃とその次のカットの陽光くらいだろうか。その代わりに『下の句』において用意されたのは、壮絶なまでの「清澄感」だ。あの「薄青」によって齎される「清澄感」の凄まじさには思わず総毛立ってしまった(あらぶる扇風機の「回転」→「あらぶる」と「ちはやふる」の2つのコマの「回転」、という2シーンが、ここにおいて漸く結実するのは述べるまでもないだろう)。

さらには、千早と詩暢の対決が頂点に達するのと共に、瑞沢高校かるた部の「薄青」と、若宮詩暢の「緑」が画面の中でせめぎ合う。この色の補正、せめぎ合いが凝視しなければ分からない次元で展開される。この対決のシーンはカルタの畳スレスレの低空飛行などの演出も相まって、実に凄まじい出来となっている。これほど繊細なまでの「色彩」の扱いはおそらく滅多に目にすることができるものではなく、それゆえに本作はオールタイムベスト級とも云える傑作に仕上がっている。