菊地健雄監督『ディアーディアー』

菊地健雄監督『ディアーディアー』

はじめに

三回の停電と三兄弟の物語である。その物語は、蓮實重彥氏のコメントのとおり、工場の扉を開くことによって始まり、扉を閉めることによって終幕へと至るが、工場の扉を開いた直後には機械を利用した、いかにも映画的な「円環・回転」のカットが連なっている。「回転」といえば、階段も「螺旋」になっており、製作陣のこだわりが楽しい。しかし、それ以上に面白いのが「信号機」へのこだわりである。

信号

横移動のカットを繋げたオープニングクレジットは、カメラと並走する車両が、カメラの緩やかな静止と共に交差点を右折する見事なショットで締め括られるが、信号が変わるタイミングも巧い(何度か撮り直されていることも予想される)。信号といえば、長男が染谷将太を助手席に乗せた車中において「信号青ですよ(行っちゃいなさいよみたいなノリで)」と染谷将太が唆しているように聞こえる演出も巧妙だが、山を登っている最中、三兄弟の服装がそれぞれ末女が「青」、長男が「黄」、次男が「赤」と、横一列に並ぶショットも思い出してほしい。この信号機のような三人の並び方は精神状態が芳しくない順になっているとも想像できるが、肝心なのは、父親の棺を決める際に「赤」の次男が一番高いのを望むのに対し、「青」の末娘が一番安いのを望み、彼らの仲裁役として青と赤の間にある「黄」色の服を着た長男が折衷案を提案することだ。この均衡が崩れ、お互いに不満と感情をぶつけ合うのが(長回しが数度挟まれる)葬儀なのは、それぞれが赤黄青の服ではなく「黒」い喪服を着ているからでもある。「黄」色の服を着ていたときは仲裁役を引き受けていた長男も、「黒」の喪服を着て感情を剥き出しにして人々を罵る。登場人物たちは、この真っ黒な精神状態のまま、乱闘のクライマックスを迎えるわけだが、ここで本作の主題について検討しておきたい。

父=鹿=神の不在

危篤状態のまま、一言も喋ることなく死に至る父の姿には間違いなく「神の不在」のイメージが付与されている。本作がユニークなのは父のイメージに絶滅種の鹿の不在を重ね合わせることで「父=鹿=神の不在」を主題としていることにあるのだが、ここで思い浮かぶ作品を幾つか挙げてみよう。例えば、本作同様クライマックスに乱闘を持ってきた「神(の子)の不在」を主題とした吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』、「鹿」に神のイメージを付与した宮崎駿監督の『もののけ姫』、次男が精神病んでいる三兄弟の群像劇(加えて、坊主が汚れている状況)にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』といった作品が連想されるが、むしろ、ここは敢えて成瀬巳喜男監督の『乱れる』と絡めて検討してみたい。製作陣が意識していたか否かに関わらず、本作『ディアーディアー』と『乱れる』の間には奇妙な親近性があるのだ。

『乱れる』

『ディアーディアー』にはショッピングモール建設が地域社会を脅かそうとしている状況、もっと云えば現代的でコロニアルな問題意識が垣間見られるが、『乱れる』もまた冒頭のスーパーマーケットの登場によって共同体が脅かされる「不穏さ」を纏った作品だった。成瀬巳喜男が巧妙なのは、「境界劇」を繰り返す(塩田明彦『映画術』参照)ことで、高峰秀子加山雄三の越えてはならない「一線」を執拗なまでに演出し、最後にはその「一線」を「彼岸/此岸」の境界にまで昇華させ、冒頭の「不穏さ」に接続してしまうことにあったわけだが、『ディアーディアー』では三人のうち誰一人として最後の一線を越えることはない。桐生コウジ演じる長男は目的の金額を手に入れることはできず会社を守れないし、斉藤洋一郎演じる次男は一人で看板を破壊しようとするも、唐突に現れた鹿の姿を追うことに気を取られ、当の鹿も逃してしまうし、中村ゆり演じる末娘は西野とキスをし身体を触らせるも最後の一線を越えはしない。三人全員が一線を越えようとするが、それぞれの思惑は何者かに裏切られ、失敗に終わるのだ。さも、その一線はまだ越えるな。まだこちら(彼岸)に来るんじゃない。「生きろ。」と鹿(=シシ神)に云われているかのように。

二つの境界

自らの現状を他人や鹿のせいにしたがっていた三人が物語の末、それぞれに自らの非を認め謝罪した直後、彼らの前に悪戯に鹿が現れるのが微笑ましい。その場所が父の墓前なのは「父」と「鹿」のイメージが重ね合わされているのはもちろんだが、墓場が「生と死の境界」に位置することとも無縁ではない。三人が鹿を視つめ、鹿が三人を視つめる、この切り返しは本作『ディアーディアー』なる題名を表象する瞬間と云ってもいいだろう。

最後に思い出してほしいシーンが二つある。一つは三人の子供時代の写真を撮っている父親が珍しく笑っていたという会話のシーン。もう一つは三度目の停電で次々と建物の電気が消えていく中、ギリシャ神話の「希望」だけが残されたパンドラの箱を想起させるように、電灯が点いたままの建物が一つだけ残っていたシーンだ。『ディアーディアー』、それは「鹿=神」への希求の物語であり、ファインダーという境界越しの「父=撮影者=神」から「愛しき人々」への温かで気紛れな眼差しの物語でもあるのだ。