クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』短評

意識されているのが、D・W・グリフィスイントレランス』とその系譜にあるウォシャウスキー&トム・ティクヴァクラウド・アトラス』であり(ところで近年の作品であれば、ヴェレナ・パラヴェルリヴァイアサン』の海上と水面下を往復する撮影もかなり参考にはされているはず)、時間軸をバラバラにして再構築した編集が単なる時間の「省略」以上に、物語性を排してまで「運動」とその緊張を持続させるために行われているという意味では、クロスカッティングは極めて適切に機能しており、多少過剰にも感じられるハンス・ジマーの音楽が貢献しているのも間違いない。本作においては、わずかな英雄譚こそあれど、物語はほとんど意味を成さない。

 

ナチス・ドイツは作中に全くその姿を現さない。神の名は濫りに唱えてはならない、その姿を見てはならないように、絶対的他者=死として作品を(画面外から)支配する「敵」としてのみ存在する。そのような抽象化とは異なり、作中において主人公たちの名が口にされないのは、彼らは背景のモブたちと同様、人間性を剥奪された、取るに足らない矮小な存在だからである。死にゆく少年が死の直前「視力を失っていた」ことを思い出してほしい。登場人物たちはただひたすらに視点人物(目撃者)としての有用性によってのみ生かされ続ける。

 

海のみを捉えることに執心した俯角のショットが非常に美しい。しかし、本作の白眉は私的には海面炎上シーンであり、これには『裁かるるジャンヌ』の火刑シークエンスのような崇高さすらあった。(英雄譚とその結末であるラストの十字架に見立てられた飛行機の炎上からも、火刑が意識されているのは想像できるし、そのように考えればクローズアップ多用も納得はできるが、ただし残念ながら、それらのショットはカール・Th・ドライヤー程の審美性には達してはいない。ただまぁ『裁かるるジャンヌ』も多額の資金を投入しながら、そのショットの大部分が人物の顔のクローズアップに費やされるという妙に歪な作品なのではあるが)。

まぁ色々褒めながら書いてはみたものの、正直言えば、冒頭から高音域が耳に刺さってキツかったのは本音。

ふや町映画タウンにて借りてみようリスト

今後自分が個人的に、ふや町映画タウンで店長のオススメ以外で借りたいものリストです(アルモドバルなどオススメが付いてるのも交じってはいます)。

【未DVD化】VHSでしか見られない隠れた名作映画100本 - NAVER まとめ

ひとまずの基準としてこちらののNAVERのページにまとめられていたものから、未DVD化案件かつ、ふや町に在庫があると思われるものをピックアップしてみました。一通りチェックはしてみたのですが、割と適当なので漏れもあると思います。

フェリーニなど海外でソフト化されているものもありますが、国内では未ソフト化ということで。

 

黙示録の四騎士

真紅の文字

長く熱い夜

あれ

若草の祈り

大砂塵

タタール人の砂漠

ひかり

奇傑ゾロ

セブン・ビューティーズ

スモーク・シグナルズ

ジョニーの事情

ウルガ

サラーム・ボンベイ

遙か群衆を離れて

プロビデンス

日曜日は別れの時

亡霊の檻

ダニエルばあちゃん

サンタ・ビットリアの秘密

世にも憂鬱なハムレットたち

マンハッタン物語

エーゲ海の天使

背徳のささやき(テシネ)

質屋

恋(ロージー)

スナッパー

ニューヨーク・ラブ・ストーリー

非情の町(ラインハルト)

子供たちをよろしく

みんな元気(トルナトーレ)

遠い声、静かな暮し

カーテンコール ただいま舞台は戦闘状態

ブラック・ローブ

トラスト・ミー

リビング・イン・オブリビオン/悪夢の撮影日誌

ライフ・イズ・スウィート

ヘンリー・フール

トゥリーズ・ラウンジ

さすらう女

バウンティフルへの旅

オフィシャル・ストーリー

エキゾチカ

アマルコルド(フェリーニ

フィオナの海

アブノーマル(ロルフ・デ・ヘール)

ハイヒール(アルモドバル)

セレブレーション

小泉徳宏監督『ちはやふる 下の句』

小泉徳宏監督『ちはやふる 下の句』

はじめに

序盤の千早と新の(ベタながらも恋への)「落下」が非常にエモい(そして一人落ちることのできない太一が相変わらずせつない)。エモといえば、太一が部員たちに一人で背負うなと諭されるシーン、千早のダッシュを収めた横移動ショット、終盤のガラス越しの新のメガネを叩くようなカルタの扱いといい、ことごとくエモーショナルだ。

色彩

しかし、本作の真骨頂は前作同様間違いなく「色彩」の扱いだろう。ただし、前作『上の句』では、あれだけ美しかった千早のイメージカラーである「赤(紅)」は(エンドロール直前以外では)本作において完全に死んでいる。というよりも意図的に「殺されている」のだ。どういうことか。

緑の氾濫

それは、クイーン若宮詩暢のイメージカラーである「緑」が、ほぼ全編を支配し「赤」の美しさをことごとく殺すからだ。「緑」は自然だけでなく衣服や非常口マークや背景その他数多の小道具に現れている(だから、階段で交わされる千早と太一の会話の後景、窓越しに屋外の木々の「緑」が映り込んでいるのも当然に意味はある)。

驚くべきは、そのような「色彩」の扱いですら、まだ序の口だということだ。というのも、千早が詩暢の存在を意識し始めてからは、色調補正により画面全体わずかに「緑」が強調されているのだ。前作では「青」補正によって生かされていた「赤」が、本作では「緑」補正によって濁らされ殺され、結果として全編通して「緑」が圧倒的な存在感を見せつけている。

薄青

そのような「緑」に支配された画面だが、詩暢との対決において、太一に肩を叩かれた千早が焦燥から抜け出すことで変化が起こる。千早が一人ではないことを自覚した途端、瑞沢高校かるた部のイメージカラーである「薄青」が「緑」を覆す。わずかに「緑」に設定されていた画面も「薄青」に補正されるのだ。

一応述べておくと、『上の句』に見られた「赤」の美しさはおろか、雪景色を筆頭とする、映画としては稀に見るほどの「温かさ」は『下の句』では失われている。光の美しさにおいても『上の句』に比肩するものがあるとすれば、あくまでも個人的な感触では、新が千早の留守電を再生する夕焼けの田圃とその次のカットの陽光くらいだろうか。その代わりに『下の句』において用意されたのは、壮絶なまでの「清澄感」だ。あの「薄青」によって齎される「清澄感」の凄まじさには思わず総毛立ってしまった(あらぶる扇風機の「回転」→「あらぶる」と「ちはやふる」の2つのコマの「回転」、という2シーンが、ここにおいて漸く結実するのは述べるまでもないだろう)。

さらには、千早と詩暢の対決が頂点に達するのと共に、瑞沢高校かるた部の「薄青」と、若宮詩暢の「緑」が画面の中でせめぎ合う。この色の補正、せめぎ合いが凝視しなければ分からない次元で展開される。この対決のシーンはカルタの畳スレスレの低空飛行などの演出も相まって、実に凄まじい出来となっている。これほど繊細なまでの「色彩」の扱いはおそらく滅多に目にすることができるものではなく、それゆえに本作はオールタイムベスト級とも云える傑作に仕上がっている。

アキ・カウリスマキ監督『ル・アーヴルの靴みがき』

本作は移民の「越境」がテーマなので、「境界」が重要なモチーフとなる。例えば48分辺りのアコーディオン奏者と移民の少年を同時に収めるショットにおける「段差」と画面分割。軽々と越境する人々と、その場に立ち尽くすしかない2人の対比。「犬も繋がれている」。「境界」といえば終盤、警視と少年を隔てるドアの扱いが大変スリリング。ちなみに、少年の窓からの逃亡は、直前の警視と老人の会話における壁面の「絵画」で予告されている。「窓は開かれている」。その後、港に警察が到着した途端に「カモメが羽ばたく」演出が絶妙。
さて、本作においてはオフスクリーンの音響・音声の扱いに注目したい。冒頭の殺人、最低限のショットと音声で鑑賞者に状況を飲み込ませてしまう手際の良さに感心したのだが、このオフの扱いは本作の続きを見ると一貫しているし、何故このような扱いにしたかも理解できる。「殺人現場」「知事の姿」「コンサート中に迫る警察のパトカー」これらは全て「死(あるいは死神)」の暗喩であり、カメラのフレーム内に収まらない。何気なく日常を生きる私たちにとって「死」はヴェールの向こう側の世界だから。
問題は「死」からいかにして逃れるかだ。答えは「箱」。コンテナ、納屋、クローゼット、野菜を乗せた荷車、密航する船等の少年の隠れる場所=「箱」のモチーフの変奏と反復。これは「妻の服を包装し病院に届ける」行為とも結びついている(無論、序盤、港に食糧を入れた袋を届ける行為、コンサートで稼いだ金を「包装」する行動にも)。
ラスト、何故妻は病から蘇ったのか。「死から逃げ切った」からだ。ロックボーカルとその妻の和解(あの影の演出。ボーカルは光と声を取り戻す)、そして主人公と警視の和解と妻の復活の対比。

菊地健雄監督『ディアーディアー』

菊地健雄監督『ディアーディアー』

はじめに

三回の停電と三兄弟の物語である。その物語は、蓮實重彥氏のコメントのとおり、工場の扉を開くことによって始まり、扉を閉めることによって終幕へと至るが、工場の扉を開いた直後には機械を利用した、いかにも映画的な「円環・回転」のカットが連なっている。「回転」といえば、階段も「螺旋」になっており、製作陣のこだわりが楽しい。しかし、それ以上に面白いのが「信号機」へのこだわりである。

信号

横移動のカットを繋げたオープニングクレジットは、カメラと並走する車両が、カメラの緩やかな静止と共に交差点を右折する見事なショットで締め括られるが、信号が変わるタイミングも巧い(何度か撮り直されていることも予想される)。信号といえば、長男が染谷将太を助手席に乗せた車中において「信号青ですよ(行っちゃいなさいよみたいなノリで)」と染谷将太が唆しているように聞こえる演出も巧妙だが、山を登っている最中、三兄弟の服装がそれぞれ末女が「青」、長男が「黄」、次男が「赤」と、横一列に並ぶショットも思い出してほしい。この信号機のような三人の並び方は精神状態が芳しくない順になっているとも想像できるが、肝心なのは、父親の棺を決める際に「赤」の次男が一番高いのを望むのに対し、「青」の末娘が一番安いのを望み、彼らの仲裁役として青と赤の間にある「黄」色の服を着た長男が折衷案を提案することだ。この均衡が崩れ、お互いに不満と感情をぶつけ合うのが(長回しが数度挟まれる)葬儀なのは、それぞれが赤黄青の服ではなく「黒」い喪服を着ているからでもある。「黄」色の服を着ていたときは仲裁役を引き受けていた長男も、「黒」の喪服を着て感情を剥き出しにして人々を罵る。登場人物たちは、この真っ黒な精神状態のまま、乱闘のクライマックスを迎えるわけだが、ここで本作の主題について検討しておきたい。

父=鹿=神の不在

危篤状態のまま、一言も喋ることなく死に至る父の姿には間違いなく「神の不在」のイメージが付与されている。本作がユニークなのは父のイメージに絶滅種の鹿の不在を重ね合わせることで「父=鹿=神の不在」を主題としていることにあるのだが、ここで思い浮かぶ作品を幾つか挙げてみよう。例えば、本作同様クライマックスに乱闘を持ってきた「神(の子)の不在」を主題とした吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』、「鹿」に神のイメージを付与した宮崎駿監督の『もののけ姫』、次男が精神病んでいる三兄弟の群像劇(加えて、坊主が汚れている状況)にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』といった作品が連想されるが、むしろ、ここは敢えて成瀬巳喜男監督の『乱れる』と絡めて検討してみたい。製作陣が意識していたか否かに関わらず、本作『ディアーディアー』と『乱れる』の間には奇妙な親近性があるのだ。

『乱れる』

『ディアーディアー』にはショッピングモール建設が地域社会を脅かそうとしている状況、もっと云えば現代的でコロニアルな問題意識が垣間見られるが、『乱れる』もまた冒頭のスーパーマーケットの登場によって共同体が脅かされる「不穏さ」を纏った作品だった。成瀬巳喜男が巧妙なのは、「境界劇」を繰り返す(塩田明彦『映画術』参照)ことで、高峰秀子加山雄三の越えてはならない「一線」を執拗なまでに演出し、最後にはその「一線」を「彼岸/此岸」の境界にまで昇華させ、冒頭の「不穏さ」に接続してしまうことにあったわけだが、『ディアーディアー』では三人のうち誰一人として最後の一線を越えることはない。桐生コウジ演じる長男は目的の金額を手に入れることはできず会社を守れないし、斉藤洋一郎演じる次男は一人で看板を破壊しようとするも、唐突に現れた鹿の姿を追うことに気を取られ、当の鹿も逃してしまうし、中村ゆり演じる末娘は西野とキスをし身体を触らせるも最後の一線を越えはしない。三人全員が一線を越えようとするが、それぞれの思惑は何者かに裏切られ、失敗に終わるのだ。さも、その一線はまだ越えるな。まだこちら(彼岸)に来るんじゃない。「生きろ。」と鹿(=シシ神)に云われているかのように。

二つの境界

自らの現状を他人や鹿のせいにしたがっていた三人が物語の末、それぞれに自らの非を認め謝罪した直後、彼らの前に悪戯に鹿が現れるのが微笑ましい。その場所が父の墓前なのは「父」と「鹿」のイメージが重ね合わされているのはもちろんだが、墓場が「生と死の境界」に位置することとも無縁ではない。三人が鹿を視つめ、鹿が三人を視つめる、この切り返しは本作『ディアーディアー』なる題名を表象する瞬間と云ってもいいだろう。

最後に思い出してほしいシーンが二つある。一つは三人の子供時代の写真を撮っている父親が珍しく笑っていたという会話のシーン。もう一つは三度目の停電で次々と建物の電気が消えていく中、ギリシャ神話の「希望」だけが残されたパンドラの箱を想起させるように、電灯が点いたままの建物が一つだけ残っていたシーンだ。『ディアーディアー』、それは「鹿=神」への希求の物語であり、ファインダーという境界越しの「父=撮影者=神」から「愛しき人々」への温かで気紛れな眼差しの物語でもあるのだ。

サム・メンデス監督『007 スペクター』

サム・メンデス監督『007 スペクター』

 

はじめに

 

ネタバレ満載なので、未見の方は速やかにお帰りくださった方が良いかと思われます。

 

前作『スカイフォール』において、ハビエル・バルデムに付与されていた「蠍」のイメージは(酒場のグラスに捕われた蠍と、MI6に捕われたハビエル・バルデムの扱いを比較せよ)、本作『スペクター』では「蜘蛛」に置き換えられている。オープニングクレジットではスペクターのシンボルが「蛸」であることが執拗なまでに仄めかされているし、直接にこそ「蜘蛛」は出てこないものの、明らかにサム・メンデスは「蛸」の背後に「蜘蛛」のイメージを意識しているはずなのだ。サム・メンデスは観客を試していると云ってもいい。「お前に本当に見えているのか、お前は盲いていないか」と。

反復

序盤から幾つものモチーフが反復されている。「冒頭のシークエンスでのソファへの落下→終盤の旧MI6本部でのネットへの落下」、「ローマでミッキーマウスを名乗りスペクターの会議に潜入→ホテルアメリカンでネズミが穴に入るのを見て隠し部屋に気付く」、「マドレーヌが列車内で銃から銃弾を抜く→ボンドが銃弾を抜いてエルンストを撃たない」といったように。特に顕著なのは、建築物の爆破とヘリコプターでの脱出劇が3回にも亘ってセットになっていることか。これらの反復は映画史における普遍的な「円環・回転」のモチーフ、つまりはヘリコプターのシャフトやロンドンの観覧車(London「Eye」)にも暗示されているわけだが、円環構造と云えば、気付いている人が何名もいるように、レア・セドゥ演じる「マドレーヌ・スワン」の名はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にちなんで名付けられていることも忘れられてはならない。しかし、それ以上に重要なのは、「境界」の扱いと「視線劇」の方だろう。

境界

マドレーヌは作中、2度カーテンを閉める。1度目は彼女の診療所で自室のスクリーンをリモコンで(正確には、スクリーンは2回に分けて閉じられる。最初はボンドが部屋にいるとき、次は部屋を退出してから)。2度目はホテル「アメリカン」のベッドの上で。それは彼女にとっての精神的な壁であり、マドレーヌなりのボンドへの拒絶の意思表示でもある。その後、彼女のボンドへの態度は好転するが、それは何故か。もちろん、歴代のジェームズ・ボンドは何の苦労もなく不自然なくらいに女性遍歴を重ねているわけだが、今回の場合は「境界(遮蔽物)」を取り払うこと、すなわち、ホテル「アメリカン」の一室で壁を取り壊し、その奥に入ること(ついでに云えば、列車の死闘において壁を壊すこと)つまり「越境」することに起因している。ボンドは物理的な壁を取り払うことで、マドレーヌの心を開くのである。

「境界」のモチーフによって暗示されるのは、ボンドとマドレーヌの間の精神的な壁だけではない。それは「真実」や「プライベート」なものを覆い隠すベールでもある。「真実」の例はアメリカンの部屋の他、「鏡」の裏のミスターホワイトの隠し部屋があるし、「プライベート」の例はマドレーヌに銃の扱いを教えるとき、ボンドが客室のブラインドを閉じていることに現れている。死闘後の二人の濡れ場も直接には撮られない。

「陽光を遮る列車」の扱い、情事を終えて砂漠の駅に降りた二人を正面から収めたショットにおいて「左方向にフレームアウトしていく列車」の扱いといい、列車もまた「遮蔽物」として使用されていることはもちろん、後者のショットでは二人が「サングラス」をしていることに着目すべきだろう。

そもそも、本作は「窃視」が意識された、メキシコの仮面のパレードの見事な長回し(ボンドがベランダの柵を乗り越え、建物を飛び越えるという越境劇)から始まるのだが、本作では「視ること」「視られること」という「視線劇」が強く意識されており、「境界」同様、最も重要な主題となっている。

視線劇

暗殺者は「目を潰されて」殺される。「視力」を失うことは本作においては「死」を意味する。エルンストの拷問でボンドの視覚が危機に瀕するのも同様の理由だ。サングラスに話を戻そう。「サングラス」の装着は単なる装飾ではない。概ね(真実に対して)「盲目」であること、「視られる側」であることを意味する。ボンドはいつサングラスを掛けているか。

1スキアラの葬儀(エルンストを背後から捉えたショットがあるが、このとき彼もまたサングラスを掛けていることは忘れずにおきたい。エルンストもまた、このときボンドを認識してはいない)

2診療所玄関口での銃撃

3アメリカンに入る直前(マドレーヌはサングラスを掛けていない)

4列車から降り立った砂漠において

などといったところか。

また、砂漠に降り立ち、エルンストの基地に到着し、それぞれの個室に案内された時点においては、2人ともサングラスを外しているが、ボンドはその後再びサングラスを掛け、エルンストに出会う直前に外している。ホテル「アメリカン」のときも同様だが、ボンドはサングラスを外すことによって「真実の目撃者」となるのである。だが、この時点ではボンドたちはまだスペクター=エルンストを追い詰めてはいない。その罠にかかっただけなのだ。

監視と蜘蛛の巣

MとCの会話においてジョージ・オーウェルの名が言及されているが、監視システム「ナイン・アイズ」について、これを「監視社会への警鐘」と捉えるのは、オーウェルが既に古典となった現代では些か素朴過ぎるだろう。むしろ、上記の映画的な視線劇に還元されていることに気付くべきだ。

視ていたつもりが、視られている。追い詰めていたつもりが罠にかかっている。砂漠でサングラスを掛けている間、ボンドとマドレーヌは「盲人」となり、監視されている側となっているのだ。監視システム「ナイン・アイズ」、それは視線の「ネット」を形成する。エルンストが画面を消し、職員たちが一斉にボンドとマドレーヌをその視線で捕縛する。この光景はボンドとマドレーヌが、スペクター=エルンストの罠、つまりは「蜘蛛の巣」に掛かったことを暗示している。

旧MI6でのクライマックスを思い出してほしい。旧MI6本部内においては罠と気付きつつも踏み込んでいくボンドをロープ(あるいはテープだったか)で絡み取ったように見せる俯瞰のショットがあるし、マドレーヌは「蜘蛛の巣」に絡めとられたような姿で捕縛されている。マドレーヌを救出したボンドは黒い「ネット」の上に跳び降りて脱出を図る。これは「蜘蛛の巣」からの逃走劇なのである。

視線と云えば、砂漠の基地で「父の死」の再演を見ようとするマドレーヌに向かって、ボンドが自分を見るように告げたことを思い出してほしい。エルンストとその部下たちの監視下において、マドレーヌは画面に映る父親ミスターホワイトの死から目を背け、ボンドの目を見つめる。彼らはごく私的な結び付きによって窮地を脱出しようとする。このごく私的で素朴な情愛が、時限爆弾への機転へと繋がるのである。

鏡像について

ボンドが時限爆弾で窮地を切り抜けたのに対して、エルンストもまた時限爆弾で応酬する。二人の関係は鏡像関係にある。

サム・メンデスの作家的主題に「家族」というものがあり、本作においてもクリストフ・ヴァルツが見事に演じたエルンストはかつての義兄フランツなのだが、それは兄というよりもボンドの鏡像なのだ。前作においても、ハビエル・バルデム演じるシルヴァが「ボンドのあり得たかもしれない姿」として活写されており『スカイフォール』冒頭のアクションでも車両のサイドミラーが破壊されていたが、『スペクター』ではボンドの鏡像としてのエルンスト像が前作のシルヴァより一層強調されている。列車での暗殺者との死闘の際には「鏡が割られている」し、旧MI6本部で防弾ガラスを挟んで対峙するボンドとエルンストを収めたショットでは、二人が鏡像関係であることが特に強く意識されている。ボンドとエルンストだけではない。MとCもまた鏡像関係にあるし、ボンドがエルンストの基地に招かれた際にも、画面の向こう側でMの口から「ガラスを割る」ことに関する言及がある。MとCの二人の決着においてもガラスが割られるのだ。

ボンドとエルンスト、MとCの二つの鏡像の対立に決着がついた後、物語は再びに越境劇へと戻る。ボンドとマドレーヌ、一度は袂を分かった二人だが、ボンドが再び境界(ヘリの滑走跡)を超えてレア・セドゥの元へと辿り着くショットは微笑ましい。

 

ところで、この記事において「目」という文字を私は何度使ったか。